(静岡県掛川市十九首にある首塚の由来)
こんにちは!てらっちです♪
前回、平将門の首塚が静岡にある⁈という話を書きました。
静岡県掛川市の十九首という町に、なんとあの平将門の首塚があるのです。
前回の記事はこちら
http://www.teracchi.com/entry/平将門の首塚が静岡になぜあるのか?
平将門が下総の国(千葉県・一部茨城県。平将門が戦いの場を変える中、千葉から茨城まで移動している)で討たれたのが天慶3年2月14日。
静岡県掛川市に平将門とその臣下の首級(しるし)がたどり着き、首を供養したとするのが8月15日です。
下総の国から京都へ行く途中、掛川の地で十九人の首を供養したというのが、掛川説で、その説が書かれているのがこちらです。
一方の七条河原説は、こうです。
首はちゃんと京都へ届けられ、七条河原にて晒し首にされます。その首はまるで生きているかのよう。夜な夜な身体を求めて声を出し、ある日、光りながら東に向けて飛んでいったというのが、七条河原説です(わたしが仮に"七条河原説"と名付けています)。
この有名な七条河原の説と、掛川説とでは話しが食い違うんですよね。
果たして、首は京都には行かず掛川で供養されたのか?
はたまた、京都まで行って晒し首にあったのか?
どちらが本当だったのか?
というのが前回です。
掛川に「十九首」なんていう地名があるくらいですので、掛川に十九人の首が来たことは来たのだと思います。なにせ地名になるくらいですから、田舎村にはかなりのショッキングな事件だったと想像がつきます
そこで事実を追求すべく、さらに調べてみました。
首はこのルートを通って行った
平治物語によると、次のように書かれています。
天慶三年(940年)二月に、藤原秀郷に討たれた首が、四月の末に京都に着き、五月三日に笑ったとかいう。
(平治物語 現代語訳より抜粋)
ということは、首は4月に京都へとたどり着いています。
2月に討たれた首が、8月に静岡に届くなど、やはり時間的におかしいのです。時間がかかりすぎですし、さすがに朝廷もそこまでのんびりしていないと思うわけです。
その後、京都の七条河原で何ヶ月も晒し首にあっています。
この辺り、はっきりいつ頃まで晒されたかを示した文献を見つけていないのですが、仮に"何ヶ月も"を3〜4ヶ月とします。4ヶ月、晒し首にあった後、突如東へ向かって、首は飛んでいきます。
時系列がはっきりして来ました。
掛川説では、『京都へ首を運んでいた一行が掛川で埋葬した』とあるのですが、
方向が逆だと、時間の問題が全て解決し、スッキリします。
『7月か8月に、京都の七条河原で晒し首になっていた首を、誰かが持ち去って、掛川にたどり着き、8月15日に埋葬、供養した』
これが一番筋が通ると思います。
もちろん首を持ち去ったのが誰かはわかりません。
しかし、3〜4ヶ月晒し首にすれば、7月か8月になります。そこから掛川まで半月もあれば余裕でたどり着きますので、(江戸時代の記録で、だいたい江戸から京都まで二週間前後かかるとある。掛川はその中間ほどの位置)
掛川の地で十九人の首を洗い清め、供養してもらった、と考えるのが自然だと思います。
そうすれば、『首が東へと飛んで行った』理由がはっきりしますよね。
東へ行ったことだけはわかっていたのでしょう。
『飛んで行った首が何ヶ所かに落ちた』という説もあります。
首を持ち去った人物が、もしかしたら何ヶ所かに分けて埋葬したのではないか?とも考えられます。
掛川説では、『京都から検視が来て首を洗い、首実検をした』とあります。これがもし新説のように京都から持ち去った首であった場合、京都から差し向けられた追っ手とも考えられます。
東へ飛んで行った平将門の首の謎。
平将門は逆賊とされ、民にも悪政と罵られていたともあります。もし首を運んでいた人物があれば、平将門がどんな人物だったのか、もしかしたら、もっと慕われた人だったのかもしれない、いやいや、首を求めて大きな利害関係があひ必要として運んだのかもしれない、もしくは毎晩身体を求める首を見て、恐怖のあまりに運ぶことになったのかもしれない……。
想像はつきません。
今回強く確信したのは、この静岡の地で平将門は供養されたということ、です。
そして、今日、8月15日に、この小さな町で首塚の供養祭が行われました。
そして供養祭の後は、町民で楽しく納涼祭です。首塚の周りは賑やかに老若男女の声が響いています。
平将門さん、恨みを忘れて、この町を見守ってくれているといいなあ、なんて思った1日でありました。
そんな感じで、今日はここまで。
てらっちでした♪